復古主義に就いて


 復古主義という言葉は殆どよい意味に使われたことがない。実際弁護の目

的でこの言葉を採用したためしがないのでも知れる。用いるのはいつも批評

家の側と決まっている。古への美に耽る佇徊的な思想であって、畢竟回顧的

な態度に過ぎなく、未来を開拓する力に乏しいことが指摘される。歴史への

積極的な認識に欠け、消極的な趣味に堕し易いことが非難される。要するに

時代錯誤の主張であって、現在に活きる者が選ぶべき道ではないとされる。

凡て古きを尊ぶ見方への批評は大概の場合「復古主義」ということの言葉で

片が附いて了う。何れにしても復古主義であるなら新しい時代とは縁が遠い。

「古い」という批評はしばしば簡便に軽蔑の意を含む。

 復古主義という名で繰り返し非難された近世の著名な人の例はラスキンと

モリスとである。彼等は強く中世紀を愛慕した故、「中世主義」'Medievalism'

の名でしばしば片付けられて了った。中世紀への耽美は、それが床しい悦楽

であったとしても、未来を切り拓く力に乏しい。又これで未来を生むべきで

はないと考えられる。中世紀は中世紀であって、現代でもなく将来でもない。

彼等の中世主義は耽美的な復古主義の別名に過ぎないと幾度か難ぜられた。

「復古主義」、この一語は実に批評家には重宝な言葉であった。凡て古へを

愛する者はこの分類の中に押し篭められた。そうして只その一語であっさり

と価値が決定せられた。その時批評家は別に復古主義が何であるかを深く吟

味しようとしない。吟味する前に既にこの断定で批評が完了して了う。だが

この批評はもっとよく反省されて後、発せられるべきではないであろうか。

 実際「復古」ということが主義であるなら、特殊な場合を除いては、当然

非難されるべきであろう。古へに耽溺して未来への開拓を怠る者は、充分咎

めを受けてよい。過去への佇徊はしばしば陥り易い誘惑であった。その讃美

は徒らに歎美に終わることが多い。実際古いものは心を惹く様々な要素を備

える。それ故単なる楽しみに堕する惧れが充分にある。真に楽しきものは無

上な美しさで迫る故、感激に終始して了う。物を愛するのは楽しむのである。

楽しみは玩びに移る故、しばしば物に淫して了う。玩ぶ人は多いが、それか

ら何か新しいものを拓く人は案外少ない。玩弄がしばしば個人的な私事に終

わって、他に働きかける力を有たないのは遺憾である。私達は古い時代への

讃美に於いて、耽美的態度に止まってはならぬ。古へに沈めば一つの弊害で

ある。

 だがその弊を見て、古作物への愛慕を直に錯誤と思うなら間違っている。

なぜならそれ等のものの多くは実際吾々の敬念を招くだけの資格を十二分に

備えているからである。例えば西欧十二世紀ロマネスク時代を選ぶとしよう。

彫刻にしろ、絵画にしろ、それ等の驚くべき形や、色や、表現や、構図やは、

あらゆる賛辞を受けてよいと思われる。この場合その世紀へ戻れというなら

復古の主義ともなろうが、その価値を礼讃することに於いて少しも誤謬はな

い。復古主義という非難が、しばしば作物の価値判断に向かっても投げかけ

られる傾きがあるのは遺憾である。批評家も亦古へを敬うのと古へに帰るの

とを混同してはならない。

 多くの批評家達はラスキンやモリスなどの考えを復古主義という言葉で簡

単に処理している。だが問題をそう粗雑に扱ってはいけない。第一批評家達

がラスキンやモリスの如く中世紀の美を深く見つめているか。不幸にも大概

の場合そうではない。直観で見るのではなく、只思想で処理して了うのであ

る。寧ろ美を見ていない故にその価値を簡単に片付け得るのだとも云える。

批評家が容易に指摘出来るような誤謬を、ラスキンやモリスが無分別に犯し

ていると思うわけにゆかない。若し批評家が真に中世紀の美しさに打たれて

いたら、よもやラスキン、モリスの思想を復古主義という批評で済ませては

いられないであろう。かかる言葉で否定し得るものとしては、余りにその美

しさの淵源が深く、事実が大きい。真にその美を解すれば、感歎せざるを得

ないだけの深みがある。只物を昔に返すというような主張ならあっさり評し

去ってもよいが、物に即して語る彼等の言葉を、そう簡単に片付けるわけに

ゆかない。若し批評家が思想で物を語らず、物で思想を語るとしたら、立場

は非常に異なるものとなるであろう。ラスキン、モリスは思想で物を語って

いるのではない。物で思想を語っているのである。彼等の思想は後からそれ

を整理したものに過ぎない。考えるより先に見たのである。見ずに語る批評

家と喰い違いが生ずるのは致し方がない。復古主義という言葉で攻撃する人

達は、大概の場合見ることは後廻しにしている。否、物を見ずに考えだけで

いう場合が九割九分である。批評家に物が見えたら、如何にその批評は方向

を更えるであろう。

 過去に正しい品があったこと、それ等に尽きぬ美しさが潜むこと、仕事へ

の誠実さが守られていたこと、かかる生産を可能ならしめた社会があったこ

となど、これ等は否定することの出来ない事実である。それならこれ等の性

質こそ最も深く吾々の反省に値するではないか。模倣するためにではなく、

将来に仕事を進める上にこの上ない暗示ではないか。正しい仕事を志す者が、

これ等の性質を省みないなら、義務を怠る者とさえ呼んでよいであろう。中

世紀への吟味は、古へに帰ることではなく、新たに創るための用意である。

特に仕事に対する誠実さが衰えて来た現代にとっては、何よりの糧であろう。

なぜなら中世紀は今の吾々が一番有ち合わせていないものを豊富に有ってい

るからである。それ故吾々が一番勉強してよい時期と考えることさえ出来る。

追従するためではなく、美の元素的法則を学ぶためである。法則はいつの時

代になっても不変不易でなければならなぬ。時世は変わり、用途は変わり、

外形は変わる。併しそれ等の底に流れる美の法則は変わらない。ここで私は

卑近な例証を挙げて真理をさぐろう。

 ここに蝋燭の光があったとする。それはもはや過去の光だと云える。それ

を愛して今も卓上に置く者がある。愛用の習慣は、その形を電気具にさえ採

用する。遠い昔の松明にさえ照明の形をとる者がある。だが時代は遠慮なく

進む。蝋燭が逝いて石油が用いられ、瓦斯が採用され、更に電気が発明され

た。今の時代で日々蝋燭を用いるのは趣味に依るか、余儀ない事情に依るか、

又は祭典の如き伝統を守る場合だけに限る。もはやそれは一般の文化的生活

とは縁が遠い。昨日と今日とは違う。それでよいのである。同じであったら

文化は変調であると云ってもよい。

 かくして今は遂にネオンの光に進んだ。吾々はもはや行灯で店舗を照らそ

うとはしない。だがここで吾々は考えてよい。そのために蝋燭の光は美しさ

を失ったかと。否、そこに見られる光の温かさ、柔らかさ、静けさを否定す

るわけにはゆかない。これに比べると如何に街頭に輝くネオンの色が浅く、

冷たく、喧しいであろう。このことに吾々は盲目であってはいけない。時間

はネオンの光を選んでゆく。併し美は蝋燭にまだ味方している。この両者の

間に今は調和がない。この反律をどう今後綜合させるか、これが吾々に贈ら

れた課題である。私達は科学が与える光を大切にしてよい。だがそれがため

自然が与えた光を無視してはいけない。後者への愛を只復古主義として棄て

去るなら愚かである。この場合恐らくは思想で蝋燭を棄てて、眼でそれを見

てはいないのである。ここにその批評の不用意がある。

 或る人はこう言い張るかも知れない。現代は何も静かな、柔かな、温かい

光を求めてはいないと。かかる性質は過去で愛された美しさというまでに過

ぎない。今は強く、激しく、金属のような光が欲しいのであると。落着いた

渋い光というが如きは、もはや昨日の要求に過ぎない。従ってかかる美しさ

は、今は美しさではないと。私達はかかる批評をよく見かける。併しそれは

只現在が「かくある」ということと、常に「かくあるべきだ」ということと

を一緒にしている。例えば西洋謳歌の時代に於いては、日本的な事などは価

値なきものとして罵倒される。そうして日本を愛する心の如きは古くさいも

のとして誹謗される。現代は決して日本的なものを求めていないとまで主張

される。西洋を尊ぶことこそ文化を向上せしめる動因であると説かれる。併

し或る時期に仮にかかる讃美が必要であったとしても、それで日本的なもの

の価値がなくなったと見ることは出来ない。まして、常に欧化主義が最上の

主義だという結論を伴いはしない。西洋の風を「取り入れる」ということか

らは、いつも「取り入れるべきだ」という規範は出て来ない。或る時に肯定

し得ること、必ずしも凡ての時に適応は出来ない。私達は「かくある」現状

が、常に「かくあるべき」理念と合致し得るかを考えてよい。

 話を前に戻そう。今ネオンの光が流行しても、光はネオンの色でなければ

ならぬと言い切れるであろうか。ネオンは規範の光たり得るであろうか。事

実は科学の未熟さから来た不満足な色調だと云った方がよい。ネオンは進歩

した科学的光であろうとも、更に進歩する科学が、いつかは棄て去る光とな

ろう。ネオンの光が新しいからと云って讃美すべきものではない。その新し

さはまもなく古くなるであろう。なぜならそれは進みつつある科学の一段階

に於いて漸く得た未熟の照明というに過ぎないからである。新しさというこ

とに余り引っかかってはいけない。新しいものが果たしてどんな内容のもの

だかをもっと吟味してよい。新しければ新しいほど用意深く吟味してよい。

新しさへの無批判的な讃美は、単に流行への讃美に終わり易い。これに比べ

ると蝋燭の光は古い。併し人智ではなく自然が守護している光だけに、ネオ

ンのそれよりも遥かに性質が複雑である。恰度それは化学染料のコバルトと

正藍との差と同一である。正藍の方が遥かに性分が複雑であって、コバルト

の単一さは科学が未だ進み切れない所から来た結果に過ぎない。美しさから

云えば正藍の方が遥かに上である。コバルトは今のままではいけない。正藍

にも負けない色となる時、始めてコバルトを讃えてよい。今のコバルトは不

完全な新しさに過ぎない。私達は蝋燭の光をつまらない光と見棄ててはなら

ない。否、ネオンの時代に一番反省してよい光は蝋燭である。それは怖るべ

き一つの反律的存在である。私達は蝋燭に帰ることは出来ない。併しネオン

に止まることは同じように出来ない。更に進んだ第三の目標へと進まねばな

らない。綜合を得るために定律と反律とを共に摂取し、共に超越して行かな

ければならない。私達は「かくある」現在と「かくあるべき」未来とを混同

してはならない。現在は道筋である、だが目的地ではない。手段を目的に間

違えたり、又目的を手段の犠牲にしたりしてはいけない。

 若し新しい凡ての光を嫌って、蝋燭を楽しむ者があるなら、復古主義と呼

んでもよい。併し蝋燭の美しさを見、又想うことは、却って未来の光を深め

るための正しい準備である。それをしも復古という言葉で片付けるなら、そ

れは光の美しさを見る眼を有たない裏書ともなろう。若し蝋燭の美しさが見

えなければ、ネオンの光を深めることは出来ないであろう。なぜなら美への

見方がなくば、残るものは只科学的なるもの以外に何もないからである。だ

がそれだけで美は生まれて来ない。

 過去を愛するのは未来を生むためでなければならぬ。未来を生む者は現在

に止まってはならぬ。現在を進めるためには過去を振り返らねばならぬ。過

去を愛して現在を忘れる者は、真に過去をも知ってはいない。同じように現

在に流され過去を省みない者は、現在をも活かすことは出来ぬ。未来は過去

と現在との綜合の上に建てられねばならぬ。過去と現在と未来とは離ればな

れであってはならぬ。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 51号 昭和10年3月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)

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